京都で花札の製造を始める
山内房治郎が京都で花札の製造・販売を開始。後の任天堂につながる事業の出発点です。
Two parallel timelines / 1889—2024
会社の決断と、ひとりの開発者の発想。
2本の時間を並べると、「世界のNintendo」が生まれていく接点が見えてきます。
上から下へスクロールしてください。赤は任天堂・山内溥の経営史、緑は横井軍平の人生と仕事、黄色の吹き出しは二本の時間が交わった転機です。
How to read
横井軍平の発明は、任天堂という会社の危機、山内溥の決断、同僚との共同作業、量産技術や市場の変化と結びついて生まれました。そこで本年表では、任天堂側と横井側を分け、同じ年に何が起きていたかを比較できるようにしています。
任天堂公式会社史や「社長が訊く」、書籍情報などで年代を照合しました。証言によって表現や年が異なる事項は、断定を避けて注記しています。
全27項目を表示しています。
山内房治郎が京都で花札の製造・販売を開始。後の任天堂につながる事業の出発点です。
西洋式トランプの製造・販売を開始。花札だけではないカード会社へと領域を広げます。
機械を触り、身の回りの物を工夫することを楽しむ少年時代が、後のものづくりの土台になります。
現在の任天堂株式会社につながる法人が設立され、かるた・トランプの製造販売体制が整えられていきます。
祖父の病を受け、早稲田大学在学中の山内溥が会社を継ぎます。若い社長の就任は、古い企業体質との衝突を伴う出発でした。
任天堂の旧年次報告書は1949年と記載。公式の海外向け会社史には1950年表記もあります。
日本で初めてプラスチック製トランプの量産に成功。新素材を使い、耐久性や品質で差別化する商品づくりでした。
ディズニーキャラクターを使ったトランプを発売。大人や賭博の印象が強かったカードを、家族や子どもの遊びへ広げます。
1962年に株式を上場。翌1963年には社名を任天堂株式会社へ変更し、カード以外のゲームや娯楽へ踏み出す意思を明確にします。
任天堂は食品やサービスなども含めて新規事業を模索していました。試行錯誤が続くなか、娯楽分野で独自商品をつくる必要性が高まります。
電気工学を学んだ横井は、工場設備の保守担当として入社。最初から商品開発者として採用されたわけではありませんでした。
伸ばして物をつかむという単純な動作を「遊び」に変えた商品が、任天堂のオリジナル玩具路線を切り開きます。
横井が保守の合間に作っていた伸縮アームを山内が見つけ、製品化を指示。横井の開発者人生が始まります。
任天堂は1968年、ピンポン玉を自動で投げる家庭用バッティング玩具「ウルトラマシン」を発売。山内溥は、商品の楽しさがひと目で伝わるプロ野球のナイター中継にテレビCMを展開し、大きく売り込みました。
販売数は資料によって記述に差があります。本年表では、公式に確認できる発売年と、複数資料で共通する「ミリオンセラー級の大ヒット」を採用しています。
横井は、ピンポン玉を投げてもらい棒で打つ遊びの面白さを、家庭の室内で一人でも再現できる玩具へ設計。球のくぼみによってカーブやシュートが出る仕掛けも盛り込みました。
任天堂は1969年、手をつないだ2人の体を流れる電流量を針で示し、「愛情度」を測る玩具を発売しました。機械仕掛けの玩具から、電気を使った体験型の遊びへ進む流れを象徴する商品です。
電気工学を学んだ横井は、身近な測定原理に、人と人が手をつなぐ場面を組み合わせました。単なる検流計でも、見せ方と遊び方を変えれば、会話や照れまで含む新しい娯楽になります。
光を使う電子技術を玩具へ導入。任天堂の娯楽が、機械仕掛けからエレクトロニクスへ進む大きな節目です。
電気をつくる技術として説明された太陽電池を、明るい場所でも光を感知できる部品として読み替え、光線銃に応用します。
光線銃をレジャー施設向けの大規模システムへ展開。玩具を競技や施設ビジネスへ広げようとした大きな挑戦でした。
オイルショックの影響と事業縮小については、書籍・証言資料を参照しています。
クレー射撃の楽しさを電子化し、光と判定の仕組みを組み合わせます。個別の商品から、空間全体を設計する仕事へ進みました。
三菱電機と協力し、任天堂初の家庭用テレビゲーム機を発売。遊びの舞台が、おもちゃからテレビ画面へ広がります。
携帯できる液晶ゲームという新しい市場を創出。同じ年、米国法人も設立され、任天堂の世界展開が本格化します。
新幹線で電卓を触る人を見たことが着想になったとされます。量産されて安くなった電卓用部品を、薄い携帯ゲームへ転用しました。
宮本茂が手がけたアーケードゲームが大ヒット。後にマリオとなる主人公も登場し、任天堂のソフト開発力が世界へ知られます。
横井は、ゲームの「もう一度100円を入れたくなる悔しさ」や企画の核を考える先輩として、宮本のアイデアを山内へつなぎました。
折りたたみ式のマルチスクリーンシリーズが登場。携帯性を保ちながら、より複雑なゲーム画面を実現します。
『ゲーム&ウオッチ ドンキーコング』で十字ボタンを初採用。見なくても方向が分かる操作感に、横井は強くこだわりました。
カセット交換式の家庭用ゲーム機を発売。ハードとソフトを一体で育てる任天堂のビジネスが、大きく花開きます。
ゲーム&ウオッチで作られた操作方法が、ファミコンのコントローラーに採用されます。小さな制約から生まれた形が、会社全体の資産になりました。
1985年に『スーパーマリオブラザーズ』、1986年に『メトロイド』などが登場。任天堂の価値が、ハードだけでなくソフトとキャラクターにも広がります。
横井は自分で工作する発明家から、チームを率いる開発責任者・プロデューサーへ。R.O.B.、Dr.マリオ、メトロイドなど幅広い企画を支えます。
交換式カートリッジを使う携帯ゲーム機を発売。テトリスとともに世界へ広がり、長く遊ばれるプラットフォームになります。
白黒液晶と成熟した技術を選び、持ち運びやすさ、長い電池寿命、壊れにくさ、遊びやすさを総合的に設計します。
家庭用ゲーム機の表現力が大きく進化。任天堂は据置機と携帯機の二つの柱を持つ企業になります。
ハードの発明だけでなく、短いルールで繰り返し遊べるソフトにも横井の考え方が表れます。
赤色の立体映像をのぞき込む独特なゲーム機を発売。商業的には成功しませんでしたが、異なる方法で3Dの遊びを試した製品でした。
ゲームボーイの成功後も、横井は新しい遊びの感覚を追求。任天堂公式インタビューでも、開発の中心人物だったと語られています。
任天堂は本格的な3Dゲームの時代へ。会社の開発規模と製品の方向性が大きく変化していきます。
31年間勤めた任天堂を離れ、より小さな組織で自ら商品をつくる道へ。退社理由を単純にバーチャルボーイの責任と結びつけない注意が必要です。
横井軍平は56歳で亡くなりました。独立後の仕事は始まったばかりで、次の製品を完成まで見届けることはできませんでした。
横井が設立したコトが関わった携帯ゲーム機と、横井発案のパズルゲームが発売。小さく、長く遊べる商品への考え方が受け継がれます。
花札から現代のゲーム機まで、任天堂の娯楽史をたどる施設が宇治に開館しました。
ウルトラハンド、ウルトラマシン、ラブテスター、ゲーム&ウオッチなどが、現代の技術を使った体験展示として紹介されています。
Jump to period
Editorial note
このページは、年代を一行で断定するためのものではありません。 製品の企画年・発売年・会社史の記載年が異なる場合や、当事者証言によって説明が変わる場合があります。
特に、山内溥の社長就任時期、ウルトラハンド発見時の会話、ラブテスターの着想、レーザークレーの損失規模、ゲーム&ウオッチ誕生時の偶然、横井の退社理由などは、資料ごとの差を残しながら個別記事で検証していきます。
誤りや追加資料をご存じの方は、コンタクトフォームからお知らせください。
Sources
年表の短い文章は、複数資料を要約して構成しています。直接引用は避け、確度が十分でないエピソードは「とされる」「証言がある」などの表現にしています。