その朝、横井軍平は、誰よりも早く任天堂に来ていた。
太陽がまだ京都の街を照らし始めたばかり。
開発部の扉を開けると、静けさが迎えてくれた。
誰もいない——音もしない。
整然と並んだ試作品たちが、無言でそこにいた。
ウルトラハンド。
ラブテスター。
光線銃、ゲーム&ウオッチ、ゲームボーイ——
壁の棚には、30年の歴史が並んでいた。
ふと、ウルトラハンドを手に取る。
カシャッ。
あの、のびるアームの音。
「……ほんまに、この30年間は奇跡みたいやったな」
静かに、そうつぶやいた。
奇抜で面白い。
そんな“遊び”を本気で追いかける日々。
誰かを笑わせるために、何度もやり直して、作り直して、ようやく届いた瞬間。
そのすべてが、ここに詰まっていた。
横井の気持ちは、変わっていなかった。
けれど
会社は、大きく変わっていた。
1つの商品の売上目標は、千億円。
市場は、世界。
会議にはビジネス用語が飛び交い、開発には数十人のチームがつく。
「……もう、おれの“工具箱”では、追いつかんようになってもうたな」
かつて、ひとりで作ったウルトラハンド。
いまでは、何百人で作る“大作”が当たり前だった。
「再スタートや」
横井は、静かに立ち上がった。
ポケットに入れていた辞表の封筒を、そっと握りしめる。
そして——
社長室の前に立つ。
しばらく、ノックせずに佇んでいた。
ドアの向こうには、いつもの山内がいる。
あの頃と変わらぬ細い目で、何かを見抜いてくるだろう。
「……まぁ、見抜かれてもええか」
軽く息を吐いて、扉をノックした。
コン、コン。
それは、30年の奇跡に、静かに区切りを打つ音だった。
KOTOの午後
退職から数ヶ月。
横井軍平は、京都の町外れ——昔ながらの古民家を改装した小さなオフィスにいた。
看板には、控えめに「KOTO」の文字。
会社というにはあまりに素朴で、どこか“秘密基地”のような場所だった。
床の間の横にある小さなテーブルで、横井はスケッチブックをめくっていた。
ペンをくるくる回しながら、何かを考え込んでいる。
「……むずかしいなぁ、これ」
その表情は、まるで30年前と変わらない。
周囲には、試作のパーツ、木片。
決裁書類も、売上グラフも、ここにはなかった。
代わりにあったのは、笑い声だった。
「うわっ、これ何ですか!? 変な音鳴りますよ!」
「おー、それ、トイレのドアから拾ったセンサーや」
ガハハと笑いながら、社員たちは古道具を分解し、組み立て、またバラす。
集まってきたのは、ただ“楽しいもの”を作りたいという人たちだった。
横井はその空気を、どこか誇らしげに見守っていた。
その日、横井の息子がふらっと遊びに来ていた。
社員の一人が、軽く声をかけた。
「将来は、お父さんみたいなクリエイターになんのかな?」
息子は少し戸惑った顔で、ぽつりと答えた。
「……わかんない」
そして、ふと父に聞いてみた。
「お父さん、どういうときに、アイデアって浮かぶの?」
横井は、にこーっと笑った。
「お前、女の子にモテたいやろ?」
「えっ?」
「それが、アイデアのコツや」
社員たちがクスクスと笑い出す。
「誰かの気持ちを引きたい。振り向かせたい。その気持ちを商品にぶつけるんや」
「そしたらな、自然と“売れるもん”になる」
「だからな、一生懸命モテる努力したほうがええで」
息子は、目をぱちぱちさせながらも、真剣に聞いていた。
「たくさんの人が喜んでくれるものを作る」
「それが、売れる商品の、ほんまの根本や」
気が付けば、横井を中心に社員たちが円陣のように輪をつくって話に聞き入っていた。
退社以来殺到していた講演依頼を断っていた横井軍平の、小さな講演会だった。
予定も台本もなかった。
けれど、その話は、とてもあたたかく、そして、どこまでも自由だった。
「社長、お迎えが来ています」
「せやった、もうこんな時間か」
横井軍平は、椅子から立ち上がる。
スケッチブックを閉じて、鉛筆を胸ポケットにしまう。
KOTOの古い引き戸を開けると、外には、いつもの黒いワンボックスが停まっていた。
助手席の窓が下がり、運転していた男が手を振った。
「おまたせ」
「いや、ちょうどええ時間や」
横井はゆっくりと車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、車は北へ向かって走り出す。
北陸自動車道、上り線。
しばらくして、前を走る軽トラックがふらついた。
「あっ!」
同乗していた男がブレーキを踏むよりも早く、車は前の軽トラックに追突した。
大きな衝撃ではなかった。
が、すぐにハザードを焚いて停車する。
「ちょっと、見てくるわ」
横井はそう言って、さっさとドアを開けて出ていった。
「動かしたら、後ろつかえるやろ」
そう言いながら、軽トラックの荷台をのぞき込み、車体を押し始めた。
——そのときだった。
後方から、もう一台の車が迫っていた。
ライトが近づく。
横井はまだ、軽トラックの後ろにいた。
気づいたときには、もう遅かった。
「ドン」
鈍く、けれど何かを決定的に断ち切るような音が、夜の道に響いた。
風が止んだように思えた。
高速道路の照明だけが、変わらず沈黙していた。
この瞬間は、
生まれるはずだったいくつものゲームが、
いくつもの遊びが、
いくつもの驚きが、
静かに、闇の中に吸い込まれていった“遊びの未来”の、断線だったのかもしれない。
葬儀の場にて
静まり返った式場。
白い花々に囲まれた棺の中で、横井軍平は静かに眠っていた。
壇上に立つのは、山内溥。
黒の礼服に身を包み、ただ、小さな紙片を手にしている。
それは、彼が一夜をかけて書いた弔辞だった。
──本当にありがとう。
──お前がいたから、任天堂はここまで来た。
──おもろい人生を、一緒にやってくれて、ありがとう。
何度も書き直した、たどたどしくも誠実な言葉たち。
山内は、その紙を見下ろした。
(読んだら、終わってまう)
(あいつとのことが、ほんまに終わってまうやろ)
しばし沈黙。
静かに、指が紙を握る。
くしゃっ。
弔辞のメモが、掌の中で潰された。
ゆっくりと、顔を上げる。
会場を見渡し、棺の中の横井を見つめる。
口を開いた。
「……バカが」
ただ、それだけ。
誰もが息を呑んだ。
その言葉の重みを、深さを。
ただ一人、横井だけが
きっと、わかっていた。
ゲームの世界は、これからも続いていく。
彼らが残した、「おもろいもん」を胸に。
『ゲームを愛するすべての人に』